【2025年12月】<法語> 確かなものは 今もはたらいている 如来の本願力
定期配信
確かなものは 今もはたらいている 如来の本願力
村上 速水(そくすい)
この12月の法語は、村上速水氏の著書『蕗の薹』(ふきのとう)から抜粋された言葉です。この言葉は、ある住職から届いた坊守様の急逝を知らせる寒中見舞いに書かれていた「今が確かなのですネ、だから先も確かなのですネ」という言葉に対して村上氏が感嘆し、したためられた文章です。寒中見舞いの言葉は、「摂取不捨」(せっしゅふしゃ)のはたらきについて夫婦で話されていた時にも、坊守様がつぶやかれていた言葉だそうです。
「今が確かだから先も確かだ」という感覚は私には無いものでした。どちらかと言えば、「先が確かだから今も確かだ」という方が、安心感がもてます。なぜなら、先のことは誰にもわからないので、先が確かであって欲しいという私の勝手な思いが先にあるからです。しかし、「今が確かだから先も確かだ」という方が、とても力強く積極的な生き方であると感じました。
如来の本願力は「摂取不捨」のはたらきであって、そのはたらきはあらゆる人々に届けられています。そのはたらきを竹中智秀(たけなかちしゅう)先生は「えらばず、きらわず、みすてず」という言葉で教えてくださっています。私の日頃の心は、相手に対しても自分に対しても、「えらび、きらい、みすてる」という心を常に持ち合わせています。そして、そういう自分を受け入れられずに逃げたり、都合よく誤魔化したりして生きています。そんな私に如来が常にはたらきかけてくださるとは思いもできないことです。
「摂取」という言葉について、親鸞聖人が和讃に記された左訓があります。
「ひとたびとりて、ながくすてぬなり。せふ(摂)はもののにぐるをおわえとるなり。せふ(摂)はおさめとる、しゆ(取)はむかえとる」
「もののにぐるをおわえとる」という言葉を初めて聞いた時、どんなに逃げようとしても逃れられない、という少し怖いイメージを持ちましたが、改めてこの言葉と向き合ってみると、そうでもしなければ、凡夫という私の身はどこまでも救い難い身であることを、親鸞聖人はこの言葉で伝えようとされたのだと思います。
浄土真宗の教えは、私に巡って来た様々な境遇や問題を外に向けるのではなく、常に自分の内に問うていくという、私にとっては正直苦しく厳しい教えです。しかし、毎年自坊でご法話をいただく伊藤元(はじめ)先生は、「今、ここの現実がどのような苦しみ、迷いの中であっても、その中で生きていたい、という私の欲望の奥にある深い願いを教えてくださるのが、仏法に遇(あ)うということですよ」と話してくださいました。
私の思いでは到底届かない、気づくことのできない深い願いが私の中にある。どんなに自分の思いに背こうとも、誤魔化そうとも、その奥底の願いは常に私にはたらきかけている。それを、お念仏、聞法を通して気づかせていただくことができることを、本当に有り難く受け取らせていただきました。
「今が確かである」だから「先も確かである」。そんな積極的な生き方を始めていきたいです。
今日のことば2025
12月
深草 教子 氏