【2025年10月】<法語> 一人の人生であっても決して一人ではなかった

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一人の人生であっても

決して

一人ではなかった

藤澤 量正

 

 「人、世間の愛欲(あいよく)の中に在りて、独(ひと)り生じ 独り死し 独り去り 独り来たり て、行に当たり苦楽の地に至り赴(おもむ)く。身、自ら之(これ)を当(う)くるに、有(たれ)も代わる者無し」(『仏説無量寿経』聖典第二版64P)。私たちは、生まれてくるときも死んでゆくときも事実上一人です。そして誰に代わってもらうこともできない人生を歩んでいます。そう聞くと、孤独が私たちのアイデンティティのようにも聞こえます。

 私の勤めている学校では、週に一度「宗教」という授業があり、毎時間に一名から二名の生徒に感話(かんわ)をしてもらいます。その中で最も印象に残ったものを紹介します。高校三年生のある生徒の感話です。

 

 その生徒は、大学への進学を早々に決めたがために、登校することに意味を見いだせなかったようです。そのため、二学期はほとんど登校せず、担任や友達がいくら声をかけてもなしの礫(つぶて)でした。そして、そのまま二学期最後の宗教の授業を迎えました。

 驚きました。教室へ行くと、なんと、その生徒が自分の席に座っているのです。二重の意味でヒヤヒヤしました。一つは、久しぶりすぎてどう声を掛ければいいのかわからなかったからです。もう一つはその生徒だけが感話をしていなかったからです。そして私が発したのは、「〇〇さん、感話どうする?」でした。すると、その生徒は迷うそぶりを一切見せずに、「やります」とだけ答えました。そして話してくれたことです。

 

 「私が学校に来てなかったのは、学校が楽しくなかったからです」。冷汗がとまりませんでした。「今日、学校に来たのは、私が学校に来たいと思ったからではありません。というより、なんか来なあかんと思ったからです」。私も含めてクラスのほぼ全員が不思議そうな表情でした。「家でミニチュア・ダックスフントを飼ってます。外に出るのが好きで、私の部屋は三階ですが、呼ぶとすぐに走ってきてくれますし、毎日一緒に寝ていました。その子が、今年、散歩中に事故に遭って下半身が動かなくなりました。それからは散歩にも一切行かなくなりましたし、定位置の外が見える窓際にも行かなくなりました。あるときテレビで犬の歩行器があることを知り、お母さんにお願いして買ってもらいました。歩行器が届いてからは、事故に遭う前みたいに、散歩にも喜んで行くようになりました。皆さんは知っていますか?階段って上がりにくいように返しがついているんです。私が三階から呼んだり、寝るときになったら、二階から一生懸命階段を上がろうとします。でも、返しに車輪がひっかかって上がれないんです。うちの子の一生懸命生きようとしているその様子を見て、私はほんまにこのままでいいんかなって思ったから今日来ました」。

 

 この生徒にとって、返しと格闘しながら一生懸命に生きようとする愛犬の姿が、自らのいただいた「いのち」をどう生きるのかという問いとなったのでしょう。確かに、私たちは生まれるときも死んでいくときも一人かもしれません。しかし、「私」が「私」として生まれた、この障壁(しょうへき)に満ちた世界は、私たちが気づくかどうかにかかわらず、私たちが生きることを問い、促してくれるはたらきで溢れています。「本願(ほんがん)」とは、そうした「本当に願われていきている私である」ということへの深い頷きの世界でもあります。

 

「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』)という親鸞聖人の言葉は、いかなる障壁をも超えて私たちを活かそうとする願いへの頷きであると同時に、私たち一人ひとりが「願われて生きている」世界への感動であったのではないでしょうか。

 

三村 覚

(今日のことば2026より)