【2025年9月】<法語> 世間に抱く関心は 必ず自己中心の 善悪による関心である

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世間に抱く関心は 必ず自己中心の 善悪による関心である

信國 淳

『いのちは誰のものか』(柏樹社)より

 

 5月、まぶしい新緑の光に出会うと、きまって蘇ってくる歌があります。それは池山栄吉先生(1873~1938)の

夏されば櫟(くぬぎ)若葉のなよやかさ 久遠(くおん)女性のひらめきをみる

というお歌です。

 

 自然界は、冬来れば、木々は葉を落として寒さに耐える用意をし、春来れば、いそいそと芽を吹いて小さな花を咲かせます。やがて夏来れば、さわやかな風に若緑のはをなびかせながらいのちの讃歌を歌っているようです。こんな美しい世界にいのちを受け、身はその深い慈愛に満ちた世界に抱かれ育まれてありながら、なぜか人は、いつまでもその温かな懐に安んじてはおられぬ心の芽生えを背負ってゆかねばなりません。

 

幼な児がしだいしだいに智慧つきて 仏に遠くなるぞ悲しき

 

と一休禅師(1394~1481)は詠まれたそうですが、それはひとえに「我」という意識、自他を分別する意識の芽生えによるものでないだろうか。自分と他人、自分と世界というものは、互いに相依り相支え合って不二的(ふにてき)に結び合わされているにもかかわらず、いつの間にか対立し、抗争し合わねばならぬものに変貌してしまう。何という悲しいことだろう。無心に憑(たの)んでいた世界が、私の思いのままにならぬものとして立ちはだかってくることになるとは。しかし悲しむべきは、自我意識の深い深い自己中心性、自己愛着性であり、それを支えている「無明」というものなのだろう。この心は、他を、世間を向こうに回して敵対させるばかりでなく、自己自身さえも思い通りに従わせようとし、思い通りにならなければ嫌悪し、侮蔑(ぶべつ)し、抹殺しようとさえする心なのだ。そんな自我意識に苦しめられて、生きる自由を喪(うしな)っていた頃に、私は信國 淳(1904~1980)先生との出遇いを恵まれたのでした。

 

 先生の前に言葉もなく項垂(うなだ)れている私に、師はしずかに問いかけてくださった。

「どうかしましたか?」

「先生、私生きたいんです!」

「そのたいが生きさせない!あなたは自分が病人であることが解りますか?その病人であるあなたを俎板(まないた)にのせて、こんな者は生きる資格がないと責め立てているのがまたあなただ。あなたは冷たい人だなぁ。人生の意義だとか価値だとか、こうなければならん、ああなければならんと自分に要求ばかりしている。それは高嶺に造花を咲かせるあり方ですよ。それはどんなに美しくても、造花ですよ。自然の花は、しっかりと大地に根を下ろしてこそ花開いている。そんな自然な生き方が、お念仏申すところから開かれてきますよ。」

 

 そして先生ご自身がお念仏に出遇われた頃に詠んだお歌を示してくださいました。

 

南無阿弥陀仏のみ名なかりせば現(うつ)そ身の ただ生き生くることあるべしや

 

 この時を起点として、私の上に念仏聞法の生活が始まりました。

 相変わらぬ自力我慢の私には、卑湿(ひしつ)の淤泥(おでい)の暮らしが続いています。そこに注がれている如来大悲の光を聞きつつ、風吹けば倒れ、風止めば起(た)ちて火を仰ぐ生活を賜っています。

 

(藤谷 純子)

2002年発行

『今日のことば』第46集より