【2025年8月<法語>】永遠の拠り所を与えてくださるのが南無阿弥陀仏の生活である

定期配信

永遠の拠り所を

与えてくださるのが

南無阿弥陀仏の生活である

坂東 性純(ばんどう しょうじゅん)

『心のとるかたち』(坂東報恩寺)より

 

 坂東性純先生のおことばは、私に「あなたの拠り所は何ですか」と問いかけてきます。言い方を変えれば、「あなたは何をたよりに生きていますか」という意味になります。その問いに答えようといろいろと思いつくものを挙げてみました。健康、家族、仕事、お金、宗教家としてのやりがい。しかし、坂東先生のおことばには「永遠の」ということばがついています。私の思いついたものは、「永遠の」ということにはなり得ません。そんなとき、以前読んだ井上洋治(いのうえようじ)神父のことば(『人はなぜ生きるのか』<講談社>)を思い出しました。

 

 井上神父は、「ある出版社から、人生で一番大切だと思うことを四百字詰の原稿用紙二枚で書いてもらえないか、という依頼を受けた」そうです。まあ、そんな短い文章で大切な問題を書いてくれという注文も失礼な話かもしれません。しかし引き受けた以上答えなければなりません。

 「健康、金銭、友情、家庭の平和、人々からの信頼などと、とりとめなく次々に頭にうかんでくるのですが、一番となるとどうも今一つこれだというものが、適確な形でうかびあがってこないのです」と述べられています。そんなとき、ある女性から相談の手紙がとどきます。「多分若いお嬢さんだと思いますが、交通事故を起こしてしまって、顔に大やけどをしてしまった、それ以来苦しみの連続で、これでは結婚もできないと思うと辛くて仕方がない、もう死にたいような思いであるというような手紙でございました。私のような仕事は、人生の裏ばかりを見せつけられることが多いので、そのこと自体はそんなに特別なことではないのですが、ちょうど人生で一番大切なことは何か、と考えていたところだったので、ハッとひらめくものがあったのだと思います。

 健康も金銭も家庭の平和もみんな大切なものであるにはちがいありません。(中略)いざそういうものを失ってしまったときに、価値のある大切なものを失って色あせてしまったときに、その色あせ挫折してしまった自分を受け入れることができる心というもの、それが考えてみれば人生で一番大切な事ではないかと思ったのです。」と述べられておられます。

 

 「永遠の拠り所」とは、井上神父の言う「挫折してしまった自分を受け入れることができる心」のことではないでしょうか。しかし考えてみると、それはことばで言うほど簡単なことではないでしょう。わたしにはとても困難なことのように感じられます。

 

 ただ阿弥陀如来だけは、絶望し、死んでしまいたいという思いをまるごと私にぶつけなさいと叫んでいるように感じます。さらにお前を救えなかったのは私に力がなかったからだよ、許しておくれと阿弥陀如来は徹底的に謝罪されています。この慈悲の謝罪がこころの底にまで届いたとき、はじめて「自分を受け入れる」という奇跡が起こるのでしょう。自分のこころでは絶望的な自分を受け入れることは決してできません。阿弥陀如来がおこす慈悲の謝罪の以外に、奇跡を起こすことは不可能だと思われます。

 

(武田 定光)

2013年発行『今日のことば』第57集より