【2025年7月<法語>】生活の中で念仏するのではなく 念仏の上に生活がいとなまれる

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生活の中で念仏するのではなく 念仏の上に生活がいとなまれる

和田 稠(しげし)氏 『信の回復』より

 

 私が30代に入った頃、和田稠(しげし)先生(1916-2006)のお話をよくきかせていただいていました。個人的な悩みを自分ではどうすることもできず、先生が九州に来られると聞くと、会場に足を運んでいました。

 

 そんなある日、先生が法話が終わった後、控室にうかがった時のことです。いつもはこちらからお尋ねをすることが多かったのですが、その時は先生から「君は苦しみ悩みがあって、それをなくしたいと思ってここへ来とるんだろう」と問われました。そのとおりだったのですが、あまりにも唐突だったこともあり、私は何も言えずにいました。さらに先生は「あのなぁ、苦悩する者を人間というんや」と言われ、私は(だから、その苦悩を取り除くことを求めて、ここに聞きに来てるんだ)と思いながらも、先生の言われようとされていることが飲み込めずに困惑し、ずっと沈黙していました。そんな私を見て、先生はダメを押すかのようにこう言われたのです。「じゃあ、もういっぺん聞くが、君は隣で泣いとる人がおっても、苦しんでいる人がおっても、自分だけは悩みもせず苦しみもせず、そんなロボットみたいな人間になりたいんか」と。

 

 驚きのあまり、私は言葉が出ませんでした。自分が意識して求めていたことが、この身が本当に求めていることとは全く違っていたんだ、という驚き。何かが自分の中でひっくり返ったような、もっと言えば自分そのものがひっくり返されたような不思議な感覚でした。

 

 私たちは、日頃、聴聞をする時に、「ためになるお話を聞きたい」「今日の話は参考になった」というように、仏法を利用するような聞き方をしていることがあります。さらに、念仏することで、迷いをなくしていこう悩みを解決しようという思いで聞いているのではないでしょうか。

 

 聴聞の原点は、個人的な悩みや苦しみから始まります。むしろ、苦悩を抜きにした聞法(もんぽう)は、精神修養や教養としての学びになりやすく、それは理解が増えた分だけ、他人を見下したり、自分の名利(みょうり)を満たすものになったりします。そうなると、学ばない方がまだましだということにもなりかねません。

 

 しかし私たちは、個人的な苦悩をなくすことだけでは終えていけない身を抱えています。安田理深(やすだりじん)先生(1900-1982)が「私たちはもっともっと悩まねばなりません。人類のさまざまな問題が私たちにのしかかってきているのです。安っぽい喜びと安心にひたるような信仰に逃避していることはできない。むしろそういう安っぽい信仰を打ち破っていくのが浄土真宗です。」とおっしゃったと聞いています。

 

 「生活の中で念仏する」ということは、念仏を手段にして、苦悩をなくそう、たすかろうとしている私たちのすがたとも言えるのではないでしょうか。しかし、それは本当の意味で私たちのすくいにはならない。むしろ、そういう個人的な思いを打ち破っていくような形で、私たちを歩ませるような如来の呼び声<念仏>が届く。その念仏のはたらきに出遇い、歩んでいるすがたを「念仏の上に生活がいとなまれる」と表現されているように思います。

 

保々 眞量

2014年発行『今日のことば』第58集より