【2025年6月<法語>】己に願いはなくとも 願いをかけられた身だ
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「己(おの)れに願いはなくとも願いをかけられた身だ」。ここに言われる願いとは「願生心(がんしょうしん)」であります。願生心とは文字通り、生れようと願う心であり、生きようと願う心であります。
そのような願いは、私たちにはないのだと言われているのです。私たちは、ものごごろがついて以来、様々な願いをもって生きてきました。それを、夢として、希望としてもつことは、ある意味で私たちの生きる支えともなってきました。そういった願いは、「願生心」と呼ぶことはできないのでしょうか。
夢や希望となった願いはいつか時が来て、叶えられるか叶えられないかという結果が出ます。その時、叶えられなければ、失意落胆し、生きる希望を失います。叶えられれば、その時は喜びにあふれ、いのち輝く思いに浸りますが、それもまもなく思い出となり、その思い出とともに願いは過去の中に消えていきます。新たな目標が見つけられなければ、かえって絶望が深くなっていく恐れさえあります。
まさに希望をもつから絶望することになってしまうのです。
この絶望は私たちが願と欲を混乱することから生まれてきます。
欲は今を生きようとする力を与えます。
願は未来を生きようとする力を与えます。
欲は、私が私であり続けるためにすべてを、今ここに集めようとする用(はたら)きです。未来さえも現在の中に取り込もうとする力です。願いが形となった夢や希望さえも現実的な目標にするのはこの欲の用きです。
願は、私から未来の私を開かせていく用きです。今ここにいる私を種として、未来に花開かせようとする力です。どこまでもどこまでも私を種として守り続ける用きです。
今を生きることに追い立てられていくと、願は欲に覆われてしまいます。そして願の表す未来を見失って花開く時を失ってしまうのです。
私たちの、様々な願いも、未来を失い、単なる夢や希望になった時、願いは消えてしまうのです。
「己に願いはなくとも」とは願いが欲に覆われて未来を失った私たちを表しているのです。しかしそこから「願いをかけられた身だ」といわれます。”心によって見失った身を再発見せよ”と言われているのです。
身は私に先立って存在してるこの身であります。この世界を、「今、ここ」として受け止めている、いのちの形です。そして、この身と世界の応答として願いは用き続けているのです。この願いを自覚するとき、私たちはかけがいのない自身に出会うことができるのです。
「己に願いはなくとも 願いをかけられた身だ」という藤元正樹(ふじもと まさき)先生(1929-2000)の言葉は、「人間は決して孤独ではない。世界の声とともに生きているのだ」と、私たちに生きる勇気を与えてくれているのだと思います。
(梶原 敬一氏)
2020年発行『今日のことば』第64集より