【2025年5月<法語>】如来の本願は 風の様に身に添い 地下水の如くに流れ続ける 

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如来の本願は 風の様に身に添い 地下水の如くに流れ続ける

平野 修 氏(『生きるということ』より)

 

 

 多くの植物が種から目を出す四月。色彩豊かに芳醇な香りを放ちながら、一瞬の華を咲かせ身を結びます。そして、枯れることによって次の新たな芽を息吹かせるのです。

 人間の一生も然り。不思議なはたらきのもと、人間は独り生まれ、人として共に生き、独り人となって死んでいくことにより、次世代へと命をつないでいきます。何度も繰り返されるライフサイクルの中で、本来、あるがままの自然の流れに身を任せればいいはずの私が、自らの思いのままに生きようとする。だから苦しいのでしょう。

 

 自らの思いのままに生きられない。それをどこかでわかってはいるものの、おのれの欲望に流され、すでにある尊い出会いを無意識のうちに拒んでしまいます。今ここにしかいない自分が、もっと楽しいことを期待して、いつかどこかを追い求めていないでしょうか。目の前のあなたと一緒にいながら、どこかでほかのだれかを待ちわびていないでしょうか。自分という存在をそのまま受け入れられない負のサイクルの中で、「絶対にあなたを見捨てない!」という呼びかけに気づかず、その声に応える術すら信じることが出来ない。それはまさしく、真実に背を向け、いつも眠ったままの状態と何ら変わりはないのでしょう。

 

 そもそも如来の本願とはどういうことでしょうか。簡単に言って、わたし一人(いちにん)に対する「眠りから目覚めよ!」真実に目覚めよ!」という絶対他力(ぜったいたりき)からの呼び声であり、「あるがままをありのままに生きよ!」という如来の願いだと思います。たとえ努力することが尊くても、淡い理想を抱いて自分の思いのままに進もうとすればするほど、自我の殻から抜け切れず、どこまでも狭い枠に縛られ自由になることは出来ません。逆にあるがままの自然の流れに身を任せることは、自我の殻を破っていくことであり、この時代社会の中にある自分にしかない一生を新たな出遇いとともに自由に生きていくことだと思います。

 

 北陸の日本海から吹き付ける春一番は強く、霊峰白山(れいほうはくさん)から吹き降ろす夏の薫風(くんぷう)は心地よい。秋の初嵐は荒れて、冬の木枯らしは冷たくて痛い。大地に根付く稲穂をはじめ、数えきれない生き物の成長において様々な影響を及ぼす四季折々の季節風は、日々の暮らしの中で、「眠りから目覚めよ!」という呼び声になって、時にはやさしく、時にはきびしく我が身に吹きつけてきます。

 

 白山の伏流水から加賀扇状地の地中を流れる地下水は、やがて手取川や日本海を満たします。その水が発して蒸気となり、雲となり、雨や雪、時には玲瓏(れいろう)たる氷となって、再び土に浸透して地下水になる。形は変わってもみずという本性を失うことなく、永遠の時間のリズムの中で地下水は今日も流れ続けている。その地下水は、現に血となり肉となって私の体内を流れているのです。

 

 たった一度限りの虚しい人生ではありません。不安の中で迷いながらも必ず戻れる処(ところ)があるという如来の誓い(約束)が、地下水の震動とともに、念仏の声となって響いてきます。それ故、もう二度と苦しまなくてもいい、一度限りの人生を最後の瞬間まで燃やし尽くせば、私の一生は次世代の新たな生命へとつないでいく一助となって終わっていけるのです。

 

 この法語は平野修(ひらのおさむ)氏ご自身の病状が悪化し、痛みを押しながら青年たちに向けた言葉だと聞いています。浄土に帰還してはや26年、死の言葉自体がいまもなお、如来の本願となって、ぬくもりを持った風のように我が身に添い、地下水の水の如く私の体内で震動し響いてくるようです。

 

大窪 康充 氏

2021年発行『今日のことば』第65集より