【2026年9月】<法語>悲しみが「いのち」への深いめざめとなっている

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悲しみが 「いのち」への 深いめざめとなっている

瓜生津 隆真(うりゅうづ りゅうしん)

 

 この法語は、瓜生津隆真師が無常なる「いのち」について説かれたご説法の一説です。お話の中で瓜生津師は、野口雨情(のぐちうじょう)作詞の動揺「しゃぼん玉」が、突然の病気により二歳になったばかりの愛娘を失った悲しみの中でつくられたことを紹介され、あらためてこのうたから感じられるこころを語られたのが、この言葉です。

 

 この言葉から、数年前にお子様を失くされた、あるお父さんの姿が思い起こされました。

 

 それは、火葬場で我が子との最後のお別れのとき、「ありがとう、ごめん。・・ありがとう、本当にごめん」と絞り出すように、しかも大きな声で棺に向かって叫ばれる姿です。火葬炉の扉が閉じられてもまだ「ありがとう」と「ごめんなさい」を涙ながらに何度も。 

 

 しばらくして、お父さんは、その深い悲しみの胸の内を話してくださいました。

 

 「亡くなった息子には、感謝を伝えることの大切さを教えるために「ありがとう」というようにいつも言ってきました。そのためか息子はいつも笑顔でありがとうと言ってくれる素直な子でした。些細なプレゼントにも、またお出かけをしても嬉しそうに満面の笑みで「ありがとう」と。そして病院でのつらい闘病の中にあっても、会いに行くと笑顔で「ありがとう」と。

 

 ところが、息子を亡くして気づかされたのは、息子への深い感謝の気持ちでした。いてくれたおかげで、自分の生きる張り合いが生まれ、癒しにもなり、つらい時も息子の笑顔にどれほど救われたことか。しかし、振り返ってみると息子にそうした気持ちを込めて「ありがとう」といった記憶がないのです。しかも、感謝すべき日々を噛みしめて一日一日を大切に過ごすこともできていなかった・・・感謝すべきは私であったのに。それが無念で、申し訳なくて。」と、涙ながらにお話くださいました。深い悲しみの中で気づかされたのは、子どもと一緒に過ごした何ものにも代えがたい喜びの日々でした。

 

 最後の別れの時、大声で「ありがとう」とよびかけられたのは、息子さんに十分伝えることの出来なかった感謝の気持ちからであり、何度も「ごめんなさい」と告げられたのは、感謝すべき毎日を当たり前のこととして漫然と生きていたことへの慚愧(ざんき)の心が吐露(とろ)されたものだったのです。

 

 日々の幸せや喜びとは、普通考えられているような悲しみと対比されるべきものではなく、また悲しみを乗り越えた後に訪れるものでもなく、実は悲しみと共にあるものかもしれません。それは気づくことの出来なかった仄(ほの)かな灯が、暗闇においてはじめて感じ取ることができるように。私たちは悲しみという暗闇の中で初めて、これまで当たり前にしてきた灯の明るさ、暖かさに触れることができるのかもしれません。

 

 人生において、老・病・死や愛する人との別離は、避けたくても避けることの出来るものではありません。必ず訪れる悲しみの前にただ立ち尽くすのではなく、その悲しみをとおして、これまで漫然と過ごしてきた日々、さらには当たり前にしてきた一つ一つの出会いの意味を問い直し、無常なる「いのち」と真向かいになり、この今を、大切に、丁寧に生きようと歩みはじめる勇気こそが私たちに願われているのでしょう。

 

本明義樹(もとあきよしき)