【2026年5月】<法語>信じるということは 聞くほかはない

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信じるということは 聞くほかはない

桐谷 順忍(きりたに じゅんにん)

 

 「報恩講とはどのような宗教行事だと思いますか」

 

 「報恩講は第二の誕生日なのだと思います。親鸞聖人の教えに出あうことによって、自身の人生とは何なのかという問いに気づける時なのだと思います。新たな自分を見出し、真実の自分が生まれる時だと考えます」

 

 現在、私は宗門関係学校で宗教科の非常勤講師をしています。これは、ある生徒との対話の中での1コマです。

 「仏教って何?」「つまらなそう」、入学当初そのように言っていた生徒たちから、思いもよらぬ言葉がとび出し「ハッ」とさせられました。

 報恩講といえば、親鸞聖人のご命日であり、本願念仏の教えを明らかにしてくださった聖人の恩徳を報ずる仏事であることは皆さんよくご存知の通りです。私もそのように受け止めていますし、決して間違ってはいないと思います。しかし、「親鸞聖人のご命日」「聖人の恩徳を報ずる」という字面(じずら)ばかりにとらわれ、報恩講の本質を見失っていたことを生徒の一言によって気付かされたのです。

 

 さて、法語には「信じるということは 聞くほかはない」とあります。この言葉を目にした時、すぐに思い浮かんだのが

 きくというは、本願をききてうたがうこころなきを「聞(もん)」というなり。また、きくというは、信心をあらわす御(み)のりなり

(『一年多念文意』聖典第二版654頁)

という親鸞聖人のお言葉です。聖人は「きく」ことが「信心をあらわす」とおっしゃいました。「聞即信(もんそくしん)」といわれる、浄土真宗の大切な教えです。

 

 「信心」と聞いて、皆さんはどのようなイメージをもつでしょうか。一般に「信心」というと、「あの人は信心深い」「信心すれば病気が治る」というように、神や仏を信仰する心、あるいは、神仏に加護を祈ることをいいます。しかし、浄土真宗では「本願力回向(ほんがんりきえこう)の信心」(『教行信証』「信巻」同273頁)といわれるように、阿弥陀仏から差し向けられた信心であり、「南無阿弥陀仏」と喚びさまされた真実の目覚めを言うのです。

 

 「聞即信(もんそくしん)」の「即」の間に何かが介在した場合、「即」とはいえません。私が信じたから聞けるようになるという話ではないことはいうまでもなく、聞いて「わかって」信じるとか、聞いていたら「そのうち」信じられるという話でもないのです。「わかって」とか「そのうち」とか、自分の「はからい」が入ると「聞即信」とはなりません。

 

 では、「聞即信」とは一体どういうことなのでしょうか。それは、「疑いようのない真実」が「言葉」となり、一瞬飛び込んできて「私を目覚ませる」ということです。異質な価値観に触れ「ハッ」とさせられる、「驚かされる」と言ってもいいかもしれません。自我でがんじがらめになっている私に対し、「本来に帰れ」と喚ぶ声「南無阿弥陀仏」を聞くほかに、真実に目覚める道はなく、信じるということもあり得ないのです。

 

井野 優介