【2026年4月】<法語>聞法するということは 結局自分を 聞くことなのです
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聞法するということは 結局自分を 聞くことなのです
中野 良俊(なかの りょうしゅん)
仏法は真理を明らかにした言葉です。しかし私たちはその真理から目をそらし、日常を生きています。そして死を恐れ、人生の意味を見失って空しく生きています。そのような私たちの耳に仏法の言葉がそのまま届くことは、本当に難しいと言わざるを得ません。そのような私たちの在り方を緋謗正法(ひほうしょうぼう)と言います。
しかし、そのような生き方を私たちは求めているわけではありません。私たちは皆、誰も代わることのできない一回限りの命を意味のあるものとして全(まっと)うしたいと願っているからです。
ですから、人類は、様々な形で真理を求め続けてきました。とりわけ、近代以降は客観的に検証可能なものとして真理を明らかにしようとしてきました。それが、今日の科学技術となって現代の私たちの生活を形作っています。
しかしそのような形で示される心理では、今ここに自分が存在していること、そして死んでいくということの意味を明らかにすることはできません。それは、一人ひとりが自分の人生によって自覚していくことよりほかには不可能だからです。
そのことを明らかにしているのが釈尊の解かれた真理であり覚(さと)りです。この法語で「自分を聞く」と言われているのは、その釈尊の説く仏法の真理を自分の存在の中に聞くことを言われているのでしょう。しかし問題は、この真理の言葉が緋謗正法である私たちにはそのままでは届かないということです。
この真理が人間に届かなくなる時代を仏教は末法(まっぽう)と言います。逆に言えば、釈尊在世時の仏教そのままでは、末法を生きる人間の問題に答えきれていなかったのです。
その人間の問題に答えようとしてきたのが大乗仏教です。そして、末法に生きる人間の事実を五濁(ごじょく)、悪事(あくじ)・悪世界(あくせかい)と、個人の資質や能力の問題としてではなく、私たちを取りまく世界全体の問題として明らかにしてきました。これが私たちが生死(しょうじ)を繰り返している現実であり、その現実を否定するのではなく、包みこむようにならなければ真理は私たちに届かないのです。真理が現実を抱えて真実となって初めて、私たちに真理の言葉が届きます。
「自分を聞く」ことが可能になるのは、真理の言葉が真実の言葉となった時にほかなりません。しかし、真理と真実が別の言葉で表されるわけではありません。真理の言葉が真実となるのは、言葉に真実の響きが吹き込まれるからです。
その響きが念仏の響きです。その響きの中に阿弥陀の名を聞く時、私の命に繋がる全てのいのちの声が聞こえてきます。その声がこの時代を人間として生きていく道を示してくれるのです。
真理が真実の言葉となる時、言葉は私たちに生きる力を与えてくれるのです。
真宗の聞法は、この阿弥陀の名を呼ぶすべてのいのちの声を聞くことにほかなりません。それは生きとし生けるもの全てが、共に生きることを喜びたいという祈りに名付けられた名だからです。この声によって、自分の中にあるいのちの願いを聞くことこそ「自分を聞く」ことです。
「自分を聞く」とは「世界を聞く」ことなのです。
今日のことば2026