忘れなの鐘

興性寺

 本日は、2011年3月11日の東日本大震災から15年の節目の年です。

震災から2年後の2013年3月13日仙台国際センターで行われた第一回3.11東日本大震災 心に刻む集いで読まれた表白を皆様にお届けしたいと思います。

 

 

表白

 

私は、きく。あなたの悲しみが分からないから

私は、きく。お前にはわからないという慟哭を

私は、きく。忘れたいというささやきを

私は、きく。あの人の嗚咽を

私は、きく。泣けないと絞り出す小さな声を

私は、きく。納得できねぇという怒りを

私は、きく。逃げられない苦しみを

私は、きく。公園で子どもと弁当を食べたいと言った親の願いを

私は、きく。ほんとはこんなことしたくねんだと

いう嘆きを

私は、きく。ふるさとを奪われた人々の悲しみを

私は、きく。返してくれよと泣き叫ぶあの声を

私は、きく。世間の流れに置いていかれそうな

あの人の声を

私は、きく。お散歩に行きたいとせがむあの子の声を

私は、きく。「病気になりませんように。」と

書かれた短冊の言葉を

私は、きく。罪悪感を超えたいというつぶやきを

私は、きく。汚染された大地の呻きを

私は、きく。ただ棄てられていく食べ物の寂しさを

私は、きく。震災は終わっていないという現実を

私は、きく。あの日いのちの歩みを止めた

亡き人の想いを

私は、きく。生きたくても生きたくても

生きれなかったいのちがあったことを

私は、きく。未来に生きる人のため息を

私は、きく。苦しいと叫ぶ私の声を

生きたいと叫ぶ私の声を

私は、きく。終わりなき歩みの中に身を置き

私は、きく。どこまでもきけぬもどかしさに身を置き

それでも、私はきく。

悲しみの底で共に繋がり、共に歩まん

そして今に生きる

今に生きる

今に生きる

南無阿弥陀仏

 

以上

 

 いのちがあることの有り難さ

 今、私が、あなたがいること以外に本当に必要なこととは何か

 安心安全の日常が幸せの基盤であること

 日常の当たり前はお陰様であること

など、考えてしまいますね。

でもこれが大事なんではないかと思うのです。

 

この機縁に私たちは何を願われ、私たち自身は何を願い生きるのか。

何を問われ、どう応えていくのか。応えていきたのか。応えていくべきなのか。

改めて考えてみたいと私は思います。

真宗大谷派では震災を忘れず、今を生きていくために3月11日の14:46に鐘をつきます。

興性寺には鐘がないので、本堂でお勤めをしています。

皆様も声なきこえに耳をすませてみませんか